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九鬼の歴史

 天然の良港と豊かな漁場を有する九鬼は、古くから漁業と海運の拠点として栄えました。1888年(明治21年)の市町村制公布にともない、翌1889年3月1日より、行野浦・九木浦・早田浦が合併するかたちで九鬼村が成立。1954年(昭和29年)6月20日よりは、尾鷲町・須賀利村・九鬼村・北輪内村・南輪内村が合併して尾鷲市が成立し、以来、三重県尾鷲市九鬼町として現在に至っています。

【年表】​

​11世紀頃

平安時代

伊勢神宮の荘園のひとつとして、「比志加御厨(ひじかみくりや)」が九木浦にあったことが伊勢神宮の領地一覧『神鳳鈔』(14世紀)に記載されている。

1345-1349頃

南北朝時代

一説には、熊野三山を統括した熊野別当の後裔が九木浦に拠点を置き、九鬼隆真と名乗ったことが九鬼氏の祖とされている。また一説には、『紀伊続風土記』(19世紀)によれば、伊勢国三重郡佐倉城主(現・四日市)の佐倉中将藤原隆信が、北朝勢力の襲撃をうけ、難を逃れて九木浦に移り住み、九鬼氏の祖となったとされる。

1352-1355年

南北朝時代

土豪として成長した九鬼氏が水軍を率いて東志摩方面に進出。隆真の子とされる九鬼隆良が英虞郡波切(現・志摩市)に砦を築いたとされる。この頃の『内宮庁宣』(1366)に九鬼氏による伊勢神宮の荘園への海賊行為が報告されている。

1549年-1594年

戦国・安土桃山時代

1549年頃、新宮から進出した堀内安房守氏善がまず九木浦に、次いで尾鷲浦に侵略した。1556年、九鬼嘉隆は九木浦に帰り住んだといわれるが、一帯が堀内氏の支配下におかれていたため、まもなく波切城に移り、また1594年には鳥羽城に移った。1585年の豊臣秀吉による紀州平定後は新宮領主に封ぜられた堀内氏の支配のもと、九木浦も「紀伊国」の領地となる。

1601-1619年

江戸時代

関ヶ原の戦いののち、徳川家康により堀内氏は除封され、紀州藩は若山城主浅野幸長の領地となる。1601年には浅野により領内の検地が実施されるが、九木浦については「紀州室郡九鬼村御検地帳」に47.056石と記録されている。その後、1619年には浅野氏にかわって徳川頼宣が若山城主となり、明治初年まで徳川氏の領地となる。

1619年

江戸時代

徳川頼宣が紀州藩主となり、藩政の整備が進められるなかで、早田・九鬼・行野・向井・矢浜・大曽根・南・林・中井・野地・堀北・天満・水地・須賀利の諸村は「尾鷲組」にまとめられ、近世村落支配の行政単位に組み入れられる。

1658年

江戸時代

​薬師寺・延明庵をあわせて、医王山真厳寺と称する。

1753-1770年

江戸時代

​鯨方役所がおかれ、藩営の捕鯨業がおこなわれる。

1872年

明治5年

前年に制定された戸籍法により​、戸籍簿ができる。この年の人口は、167戸574人。

1874年

明治7年

​九鬼小学校が下等小学校として創立。生徒数は23名。

1889年

明治22年

九鬼・早田・行野が合併し、九鬼村となる(行野は1911年に九鬼村より分離し、尾鷲町と合併)

1890年

明治23年

九木浦共同組合設立

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